自分自身は保守だと思っている。8valuesやIDRlabsの政党座標テストなどでは中道的と判断されたが、日本特有のこととかがなかったりする関係でそうなっているだけで自分自身はれっきとした保守だと思う。
では、本題に入ろう。
自分的に左派やLGBTQ+活動家が掲げるジェンダー平等は逆効果、つまりLGBTQ+の人々が生きづらい社会にしてしまうのではないかということである。なぜならこの政策は「心の性別が男」「心の性別が女」の定義を決めつけることになってしまうからである。つまり左派やLGBTQ+活動家がこの政策を主導する目的である「多様性を認めること」とは逆のことをしているということになる。金子みすゞは「みんなちがってみんないい」と詩の中に書いていて、自分はこの言葉こそが多様性を認めることだと思う。また、LGBTQ+の中にはXジェンダーやノンバイナリーといった人達もいる。Xジェンダーとは心の性別が男か女かはっきりしていない人、ノンバイナリーとは心の性別がない人のことを指す。この人たちのためのジェンダー平等とは心の性別を気にしないことではないだろうか。
ここで読者に質問がある。「心の性別」はどうやって判別するのか。
おそらくほとんどの人が「?」となったはずである。上にも書いたように心の性別の定義はそもそも存在しない。性的指向は存在するが、「心の性別」という言葉についてはどう考えてもレッテル貼りに過ぎないのではないか。いくら性格が似ている人間でも全く同じ人間は一人たりとも存在しないはずである。心の性別での男女の基準は何なんだろうか。自分には到底わからない。でもこれだけは言える。心の性別というものは存在しない。心はみんなそれぞれ違う。そもそも「性別」というものは生物学的なものであるというのになぜ心理学的な側面で使おうとするのか。自分には到底わからない。そもそも「男らしさ」「女らしさ」の概念をなくすべきである。
「心の性別」というものが存在していても、浴場やトイレといった性器を露出する場面では生物学的な性別で分けたほうが適切だと言える。心の性別で分けていいのはそのような場面を除く場面のみだと思っている。(そもそも心の性別は存在しないのだが。)また、日本国憲法には「公共の福祉」というものがある。この観点から言っても浴場やトイレといった性器を露出する場面では生物学的な性別で分けるべきである。そんなに入りたいのであれば性適合手術を受けるべきである。
このような長過ぎる本文になってしまったが、要点をまとめると、
心の性別の定義はそもそも存在しない
そもそも心の性別自体存在しない
心はみんなそれぞれ違う
そもそも「男らしさ」「女らしさ」の概念をなくすべき
生物学的な性別で分けるべき場面が存在する
ということである。
なお、これまでなんか違うなと思ったことを書いてきたが、流石に賛同できるところも書いたほうが説得力があると思ったため箇条書きで書いていく。
同性婚などの法律の整備
根本的な目的
ちなみに同性婚について一言言っておくが、どう考えても誰と誰が結婚するかについては全くの他人事として気にしないほうがいいと思う。気にすると他の家庭への干渉になってしまうから。
あとは西欧の方々に言っておきたいことがある。男の娘とトランスはぜんぜん違う言葉である。性自認が男であろうが女であろうが男の娘であることには変わらない。後者であると決めつけるのはやめてほしい。
…と長くなりすぎたが書くことは書いたので終わろうと思う。
では。